2005年07月12日

A long time ago in a galaxy far, far away....

ネタバレあるいは個人的な思い入れ満載につき、ご注意くださいませ。

一つの物語が終焉を迎えた。いや、確かに体裁としては二つの物語が繋がったと言うべきなのだが。僕にとっては、この物語はEpisode IVに始まり、Episode IIIに終わる一大叙事詩なのだ。

この物語に出会ったのは小学生の頃だった。当時の技術の粋を極めたその映像と壮大な世界は、その後の人生に影響を与えるに充分すぎる衝撃と魅力を持っていた。数少ない情報を求めて、唯一手の届く範囲にあった小説版をそれこそ暗誦できるぐらいに読みふけった時代も、今振り返ってみれば20年も前のこと。(最初にリアルタイムで観たのは「Return Of The Jedi」だった)

Episode IVからVIに至る旧3部作は、「悪に転落した父親と対峙し、克服する息子の物語」あるいは「過去の失敗から生じた悲劇に決着をつけようとするジェダイの生き残りたちの生き様」という色彩の濃いストーリーだった。ここに描かれていたダース・ヴェイダーは良心を捨て去った、血も涙もない冷酷な「シスの暗黒卿」という印象。しかし、実の息子であるルークとの闘いの中で自らの奥底にかろうじて残っていた善なる部分を取り戻して、父子は再会し、そして別れてゆく。そんな話だ。

しかし、Episode IIIまで観ると、その印象は表面的なものに過ぎなかったことに気付く。ダース・ヴェイダーとなるアナキン・スカイウォーカーは、愛する者を失うことを恐れたが故に人智を超えた力を求め、そしてその力に溺れ、一旦は手にしたかに思えた全世界と、力と、そして愛する者を全て失うことになる。きっかけは、身近にいるごくわずかな心を通わせることができる人を救いたかっただけなのだ。そこをシスに付け込まれ、純粋すぎる良心は悪しき意思へと歪められてゆく。
身体の大半を炎に焼き尽くされ、無力となって初めて、全てを失ったことに気付いた絶望感、後悔、怒り、憎しみ、苦痛。それでもなお、自分を陥れた張本人を師と仰ぎ、付き従う「ダース・ヴェイダー」としての立場から逃れられない屈辱感と歯痒さ。前3部作のダース・ヴェイダーが秘めていたのは、これらの感情だったのだ。

Episode VIの終わり間際、持てる力を使い果たした父子のこんなやりとりがある。
「いや、僕はあなたを助ける。こんなところに置いて行きはしない」
「もういいんだ、息子よ。お前はもう、私を救ってくれたのだよ」

忘れていた良心を取り戻してくれたことについて「救ってくれた」と言っているわけではない。心の奥底に眠る良心そのものは、片時も忘れたことなどなかったのだ。
息子のルークのおかげで、過去に自分が犯した過ちと、それに対する贖罪が今ようやく終わりを告げたことこそが救いだったのだ。そのことに対する感謝と、そして自分の不始末のツケを一身に背負わせてしまったことの謝罪を伝えたかったのだ。だからこそ、あの場面で彼は仮面を捨てて、傷だらけの素顔を曝して息子に語りかける必要があった。


冒頭で述べた通り、この物語はあくまでもEpisode IVに始まり、IIIに終わるダース・ヴェイダーのストーリーだと思っている。Episode IからIIIは、Episode VIでようやくフォースと一体になることができた彼自身の回想録なのだ。なぜ自分はこのような道を歩むことになってしまったのか?運命の分かれ道はどこだったのか?過ちを犯してしまった理由は?
やっとのことで魂の安らぎを得ることができた彼自身が、歩んできた一生を振り返る。あるときは愛する人を懐かしみながら。あるときは間違った選択を後悔しながら。
物語を観る我々は、そんな彼の回想に付き合って喜び、怒り、哀しむ。そして、歴史に「If」は禁じ手だと知りつつも、敢えてその可能性に思いを馳せるというわけだ。

果たして彼に違った道を選ぶ余地があったのかはわからない。
が、安らぎを得て自分の一生を語ってくれた彼に贈る言葉があるとすれば、それは一つしかあり得ないだろう。

May The Force Be With You.

もうお別れのようだ。
今まで本当にありがとう。
あなたのことは忘れない。
posted by cesare at 23:59 | 映画
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